浮世絵で見る江戸・両国

第4回 江戸最大の繁華街〜その1

語り手:大江戸蔵三
都内の某新聞社に勤める整理部記者。三度のメシより歴史が好きで、休日はいつも全国各地を史跡めぐり。そのためか貯金もなく、50歳を過ぎても独身。社内では「偏屈な変わり者」として冷遇されている。無類の酒好き。

聞き手:蔵前なぎさ
都内の某新聞社に勤める文化部の新米記者。あまり歴史好きではないのだが、郷土史を担当するハメに。内心ではエリートと呼ばれる経済部や政治部への異動を虎視眈々と狙っている。韓流ドラマが大好き。

仮設ならオッケー?

明暦の大火が原因で江戸の都市計画が進んだっていうことはわかったけど、実際どんな風に変わったの?

家屋の密集が延焼につながったという反省から、いろんな場所に空き地を設けることにしたんだ。まず江戸城の中心部に火が及ばないように、内堀の中にあった御三家の屋敷を外側に移転させて、馬場とか菜園にした。そうなると玉突き式に他の大名屋敷も移転せざるを得ないから、ほとんどの武家屋敷は城の外側へ拡散していったわけ。こうした移転は火事の翌年だけで900件以上あったらしい。

900件!引越屋さんは儲かったでしょうねぇ。


大名達もあんまり城から遠くなると登城、つまり通勤が大変になるから、屋敷を機能別に分けることにした。一番城に近いのが藩主と家族が住む上屋敷、次が親戚の住む中屋敷、運河や海の近くにあって物資を運んで貯蔵する下屋敷という具合だ。

でも、そんなに屋敷がたくさんあったら、また土地が狭くなっちゃうんじゃないの?

そこで火事があったその年の内に、69もの寺社を外堀の外側に移転させたんだ。当時の寺社は広大な敷地を持っていたからね。その分、建物と建物の間隔を広くすることができたわけ。

その年のうちに神社やお寺を移転させて、翌年には大名屋敷を整理するなんて、もの凄い復興スピードよね。ますます今の政治がダメに思えてきたわ。

それだけじゃないよ。道も整備した。まず道幅をそれまでの倍、例えば日本橋通りなら10.9mから18.2mに広げて、なるべく直線が続くように区画割りした。さらに要所要所に「火除地」と呼ばれる空き地を設けた。これは延焼を防ぐための緩衝地であると同時に避難場所でもある。そして道路と火除地を兼ねたのが広小路というわけ。

今でも名前が残ってるわよね。上野広小路とか…。


その通り。その広小路は、早速両国橋の両サイドにも採用されたんだ。それが両国広小路。上野、浅草と並んで「江戸三大広小路」なんて呼ばれてるんだ。これは万が一、橋が焼け落ちた場合を想定して、橋の両側には避難場所が必要になるという判断だね。だから当初は「橋詰広場」ということで、東側を東詰め、西側を西詰めと呼んでいたんだ。

今で言うと避難場所を兼ねた公園みたいなもの?


当時は「公園」なんて概念はないから、なんにもないただの空き地ですよ。

あら、それじゃ勿体ないじゃない。土地の有効利用とか考えなかったのかな?

キミも不動産業者みたいなことを言うねぇ。でも、キミと同じようなことを考えた連中は江戸時代にもいたんだよ。まず、橋ができたことで隅田川の東側が途端に注目されるようになった。いわゆる「川向こう」の開発だね。本所、深川、向島辺りの埋め立てがどんどん進んで、都市化も進む。そうすると両国橋の交通量も増えるから、何か商売やったら儲かるんじゃないかって連中が出てくる。

だけど、避難場所に建物造ったらまずいでしょ。


それはその通り。そこで、ちゃんとした建物はダメでも、屋台とか仮設店舗だったら、もしもの時には移動も分解も簡単だから置いてもいいんじゃないでしょうかって考えたヤツがいる。

ははぁ、屋台村かぁ。考えたわねぇ



それなら構わぬと、お上も認めたから、両国のふたつの広場はたちまち仮設のイベントスペースに早変わりした。ちょっとした飲食店から始まって、やがては見せ物小屋や青物市まで立ち並ぶようになったんだ。

江戸の商売人って賢いのね。でも、橋があるっていうだけで、そんなに賑わうものなの?

今で言うなら、お台場の例を出せばわかりやすいかな。あそこはもともと都市博が予定されていて、中止になったから、本当に広大な空き地になっちゃった。そこにまずデックス東京ビーチという巨大なショッピングモールができた。それからランドマークとも言えるフジテレビや日航ホテルができて、その後、売れない土地を都が10年契約で格安の借地にしたら、パレットタウンがオープンして、イベントスペースにもなっただろ?

そういえば、一時契約切れで取り壊すっていう話があったわよね。結局そのままになったけど…。あの観覧車、初めてのデートで乗ったのよねぇ。

キミのつまらない思い出話はど〜でもいいけど、ショッピングや飲食店の集まる仮設小屋が賑わい始めると、やがて両国橋の東側にランドマークができた。それが今も残る「回向院」だ。将軍家綱が、火事で無縁仏になった人たちの霊をなぐさめようと「万人塚」を作り、大規模な法要を行ったのが始まりで、その後たくさんの人が訪れるようになった。江戸名所図絵にも残ってるだろ。

絵を見ると、かなり立派なお寺だったのね。これなら観光地にもなるわよね。

その観光地・回向院境内が、やがて人気のイベントスペースになっていくんだ。

←江戸名所図絵より回向院
      

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