浮世絵で見る江戸・両国

第6回 江戸最大の繁華街〜その3

語り手:大江戸蔵三
都内の某新聞社に勤める整理部記者。三度のメシより歴史が好きで、休日はいつも全国各地を史跡めぐり。そのためか貯金もなく、50歳を過ぎても独身。社内では「偏屈な変わり者」として冷遇されている。無類の酒好き。

聞き手:蔵前なぎさ
都内の某新聞社に勤める文化部の新米記者。あまり歴史好きではないのだが、郷土史を担当するハメに。内心ではエリートと呼ばれる経済部や政治部への異動を虎視眈々と狙っている。韓流ドラマが大好き。

数奇な運命を辿った初代・国技館

蔵三さんに聞いて興味が湧いたから、ゴールデンウィーク中に回向院に行ってみたんだけど、全然お寺っぽくなくてガッカリ。本堂だってビルになってるし…。

あはは。そりゃあ残念だったね。回向院は創建以来、何回も焼けたからね。最後の火災、つまり東京大空襲で焼けちゃってからは、昔のような本堂は再建しなかったんだよ。でも、写真は残ってるよ。


あっ、これこれ。こんな感じのお寺が見たかったのよ。隣も高層ビルとマンションが建っているから、風情も何にもないじゃない。

その高層ビル、今の「両国シティコア」とマンションがある場所に、昔は国技館があったんだ。写真の左側にちょっとだけ写ってるだろ。昔の絵はがき(左)もあるよ。たぶん形からして再建後の着色写真だと思うけど。

あ、本当だ。へぇ〜、結構モダンな建物じゃない。ビックリ。


通称「大鉄傘(だいてっさん)」と呼ばれたドーム型の建物だ。設計は日銀本店や東京駅を設計した辰野金吾と、弟子の葛西萬司。内径62m、天井高25m、収容人数13,000人という当時としては最大級の建築物だね。

いつごろできたの?どう見ても江戸時代じゃないわよね。


着工は明治39年(1906)で3年後の明治42年(1909)に竣工した。ここで相撲の興行が始まったのは6月場所からで、その時点ではまだ国技館という名前が決まっていなかったから、「常設館」という仮称になっているんだ。これは江戸時代からの「小屋掛け」つまり臨時興業ではなくて、今後は常設興業になりますよという宣言でもあるんだ。

お相撲の興業ってそれからず〜っといまだに続いているのね。さすが国技だわ。

実は相撲が国技であると国が認定したことは一度もないんだ。むしろ国技館という名前がついたことで国技というイメージが定着したと言った方がいい。当初は板垣退助が中心になって名前を決めようとしたんだけど決まらなくて、最終的には『地底探検記』なんかを書いた作家の江美水蔭(えみ すいいん)が起草した開館の挨拶文に「相撲は日本の國技なり」とあったのを引用して「國技館」という名前になったんだ。

結構イージーに決められたのね。でも、相撲は国技だってみんな思ってるんだから、影響力はすごいかも。

でもね、こうして建てられた国技館も順風満帆とはいかなかったんだ。大正6年(1917)には売店から火が出て、回向院の本堂ごと全焼しちゃった。それでやっと3年後に再建したと思ったら、今度は大正12年(1923)の関東大震災でまた焼けちゃった(写真下)。でも、今度は外壁も亜鉛製の屋根も残っていたから何とか翌年再建した。

火事に縁があるのね。それでも建て直すんだから、相撲ってそれだけ人気があったのね。

その後、太平洋戦争が始まって、昭和19年(1944)には陸軍に接収されて風船爆弾の工場になった。その間も相撲は後楽園球場を借りて行われたんだけど、国技館の方は翌年の東京大空襲でまたまた…。

焼けちゃったの? つくづく火事に縁があるわねぇ。


焼けただれた国技館は戦後GHQが接収してメモリアルホールという名前で改装されるんだけど、改装前に一度、改装後に一度11月場所が行われただけで、11月場所終了後の、横綱双葉山引退興行がこの国技館で開催された最後の相撲興行になったんだ。

どうして2回しか相撲ができなかったの?


接収中の相撲興行をGHQが許可しなかったからさ。だから昭和27年(1952)に接収が解除されるまではプロレスやボクシング、柔道といった格闘技の会場として使われたんだ。

接収が終わったら、また相撲が始められるじゃない。


一応相撲協会が再開を検討したんだけど、その頃にはすでに蔵前国技館が建設中だったし、日本もモータリゼーションが始まっていたけど両国には駐車場スペースがなかったから、断念した。その後国際スタジアムとなってローラースケートのリンクとして使われたり、力道山のプロレスブームに乗って会場として使われたりもしたんだ。

でも、今は残ってないわよね。



その後日大に譲渡されて「日大講堂」になった後は、全共闘の闘争の舞台になったり、プロレスやボクシングのタイトルマッチが行われたりして、相変わらず賑やかではあったけど、かつての相撲の面影は無くなってしまった。その頃、相撲と言えば蔵前だったからね。結局、老朽化が進んだということで昭和58年(1983)に解体された。

時代の運命に翻弄され続けてきたのね。何か淋しい感じ。


解体の翌年、まるで先代の後を継ぐように新・両国国技館が誕生した。相撲がやっと両国に帰ってきたんだよ。その代わり、我々オールドファンには忘れられない丸屋根の旧国技館は跡形もなく消えてしまった。でもね、今でも「両国シティコア」に行くと、中庭にタイルで描かれた円がある。それはかつての国技館の土俵の位置を表しているんだ。

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