浮世絵で見る江戸・両国

第10回 両国橋と花火〜その3

語り手:大江戸蔵三
都内の某新聞社に勤める整理部記者。三度のメシより歴史が好きで、休日はいつも全国各地を史跡めぐり。そのためか貯金もなく、50歳を過ぎても独身。社内では「偏屈な変わり者」として冷遇されている。無類の酒好き。

聞き手:蔵前なぎさ
都内の某新聞社に勤める文化部の新米記者。あまり歴史好きではないのだが、郷土史を担当するハメに。内心ではエリートと呼ばれる経済部や政治部への異動を虎視眈々と狙っている。韓流ドラマが大好き。

世相を切り取った広重

それはそうと蔵三さん、ちょっと疑問があるんですけど…。



今さらなんだよ。キミは毎回疑問だらけじゃないか。くっだらない質問に答える方の身にもなってみろよ。


あはは。まぁ、そう言わないで。最初に見せてもらった広重の絵なんですけど、他の絵に比べて、なんか寂しくありませんか? 人出とか、舟の数とか…。


おお、たまにはいい質問をするじゃないか。その通りなんだ。以前に紹介した絵では、両国橋なんか人が溢れて落ちそうになってるだろ。実際、落ちたこともあるんだけど。


えっ? 冗談じゃなくて?



ホントの話だ。この写真に写っている両国橋は明治8年(1875)に架け替えられた最後の木造橋なんだけど、明治30年(1897)8月10日の花火大会で、群集の重みに耐え切れなくなって10mにわたって欄干が崩落したんだ。この事故で十数名の死傷者を出したことから、両国橋は鉄橋になったというわけ。

いくら木造でも、欄干が落ちるぐらいだから相当な人出だったんでしょうね。そう考えると、余計に広重の絵の寂しさは腑に落ちないなぁ。


晩年の広重は、ただ風景を描くだけじゃなくて、絵に何かしらの意味を隠すケースが多いんだ。この場合は、ズバリ不景気だ。当時の世相は、今の日本と良く似ている。


今と似ているって、例えばどんなこと?



この絵は広重が亡くなる年に描かれている。つまり安政5年(1858)だ。この3年前には江戸で安政の大地震が起きて、4300人が死亡、1万戸の家屋が倒壊するという大惨事になっている。ちなみに安政年間は地震の当たり年で、ほぼ同規模の地震が3度も起きているんだ。

それじゃあ、この絵はやっと復興した後の江戸っていうことなんだ。



そう。大老井伊直弼の安政の大獄はこの年に始まり、2年後の安政7年に井伊直弼は桜田門外で暗殺される。黒船来航以来、幕府の体制はガタガタで、尊皇攘夷が吹き荒れ、地方の雄藩が台頭してきた時代だ。政情不安、政治不信も今と同じなんだよ。

それに加えて不景気ってことかぁ。



復興需要で一時的には潤ったけど、当時の米相場を見てみると、安政2年に100文で1升2合買えたのが、翌年には7合、安政5年には5合5勺という具合にインフレ状態だ。当時の日本は貿易を制限しているから、内需しかない。一旦不況が長引くと、脱出するのが難しい状態になる。幕府にしても、赤字続きで財源がないから公共事業も出せなくなる。

国が借金まみれなのも今と同じなのね。なんだか切ないわ。



だから、江戸の風物詩になっていた両国の花火も、幕末には不定期になって毎年上げていたわけではないんだ。この年、安政5年の花火は、大地震後初めての花火だったらしい。広瀬六左衛門という人の『雑記抄』には、不景気が嘘のような人出で、両国橋の下流まで納涼船が溢れていたと書かれているんだけど、絵を見て何か気がつかないかい?

う〜ん、何だろ。そういえば何となく手前の舟の灯りがちょっと少ないような…。



そう思うのは、屋形船が一艘しかないからさ。その点は『雑記抄』でも指摘されている。全盛期はこんなもんじゃなかった。江戸っ子最大の楽しみだった舟遊びも、ぐっと控えめになっていたということだ。

ということは、この絵はかなり現実をリアルに描いているのね。



この4年後、文久2年(1862)には麻疹が流行して花火は上がらず、翌年もなし。慶応元年(1865)も記録がない。やっと盛大に打ち上げられたのは慶応4年(1869)になってから、つまり明治元年の話だ。

幕末には国内でも戦争があったから、それどころじゃなかったんでしょうね。



明治5年の記録では屋形船5隻、伝馬船70隻、日除船250隻と書かれているから、やっと全盛時の賑わいを取り戻したわけだ。で、その後の記録に出てくるのは明治7、10、20,23,25、28、そして欄干が落ちた30年。31年には前年の反省から橋の上で交通整理を行っている。

思ったより飛び飛びの開催なのね。



実は、両国の花火が再び定例化したのは戦後の話なんだ。戦雲漂う昭和15年(1940)から11年間は開催されなかった。昭和23年(1948)以降は、ほぼ毎年開催されて、昭和36年(1961)で一旦幕を閉じる。

えっ? 何で止めちゃったの?



交通量が増えて規制が難しくなったこと、周辺に家屋が密集して火事の危険性があったこと、何よりも隅田川の水質悪化だね。当時の隅田川は完全にどぶ川で悪臭もひどかったんだ。

信じられない。それから何年ぐらい花火を上げなかったの?



「隅田川花火大会」と名前も会場も代えて行われるようになったのは昭和53年(1978)。実に17年ぶりの復活だ。そう考えると、両国の川開きと呼べるのは最初が享保18年(1733)、最後が昭和36年(1961)だから、開催と中止を繰り返しながら228年間続いたということになるね。

それはそれで凄い歴史よね〜。



ちなみに第1回の全国花火コンクールはまだ川開きだった頃の昭和23年に始まって、今も続いている。今年の花火大会は7月28日に第1会場で9,500発、第2会場で10,000発と、不景気を吹き飛ばす大スケールだ。享保18年が20発程度だったことを考えると、江戸の人が見たら腰を抜かすだろうね。
<おわり>
←「江戸名所百景 両国花火」歌川広重筆

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