浮世絵で見る江戸・両国

第9回 両国橋と花火〜その2

語り手:大江戸蔵三
都内の某新聞社に勤める整理部記者。三度のメシより歴史が好きで、休日はいつも全国各地を史跡めぐり。そのためか貯金もなく、50歳を過ぎても独身。社内では「偏屈な変わり者」として冷遇されている。無類の酒好き。

聞き手:蔵前なぎさ
都内の某新聞社に勤める文化部の新米記者。あまり歴史好きではないのだが、郷土史を担当するハメに。内心ではエリートと呼ばれる経済部や政治部への異動を虎視眈々と狙っている。韓流ドラマが大好き。

人生は線香花火?

今年の隅田川花火大会は7月28日だそうですよ。



毎年行きたいと思いながら、あの浅草界隈の凄まじい混雑を考えると、家でビールでも飲んでいたほうが良くなるんだよなぁ。


蔵三さんの場合、家でひとり線香花火っていうイメージね。



フン、線香花火こそ人生の縮図じゃないか。あのポトンという落ち方に、もののあはれを感じるんだよ。まぁ、それはさておき、両国の花火と言っても、最初の頃は線香花火みたいな玩具花火を船で楽しむ程度のものだったんだ。

あれぇ、打ち上げ花火じゃなかったんだ。意外に地味だったのね。



立花火が主体で、立てて火を噴くタイプだな。花火売りの舟が売りに来て、客の注文に応じて見せる。


そのぐらいだったら、自分で遊んじゃいけないの?



振袖火事を思い出してくれよ。江戸は火事が多かったし、今みたいな消火技術もないから、火元には敏感だった。だから、許されていたのは隅田川のみ。しかも舟の上で扱い馴れたプロに任せるというのが限界だったわけ。

そんな程度でも江戸の人たちは楽しかったのかなぁ?



「一両が花火間もなき光かな」なんていう宝井其角の句があるけどね。お酒や料理、冷やし瓜なんかを売る「うろうろ舟」、今で言うなら移動コンビニもあって、結構楽しかったんじゃないかな。

じゃあ、いつ頃から大きな花火を上げるようになったの?



享保18年(1733)の、旧暦で5月28日。暴れん坊将軍吉宗の時代だよ。その理由というのが、決しておめでたい話じゃないんだ。前年の享保17年は、冷夏とイナゴの大発生によって西日本一帯で大凶作になった。その結果、餓死者だけで12000人、250万人が飢えに苦しんだと言われている。

江戸時代は食べ物を輸入できないから悲惨よね。



加えて江戸でコロリが大流行して多数の死者を出したから、幕府としても何らかの厄払いが必要と考えたんだろうね。それで、死者の慰霊と悪病退散を念じた水神祭を催すことになった。

あっ、コロリってコレラのことでしょ。ドラマの「仁」で観たわ。



そう言われているんだけど、この時代のコロリについて確証はない。キミの言う「仁」の時代、つまり文政5年(1822)に海外から長崎に持ち込まれたコレラが最初だと言われているからね。

でも、慰霊祭とかで花火を上げるって、何かイメージが浮かばないなぁ。



この16年前に、水神祭で献上花火を上げた例に倣ったのかもしれないね。長崎の精霊流しでは派手に爆竹を鳴らすだろ。あれは精霊船が通る道筋を清める意味があるというから、この時代花火というのは、単なるエンターテインメント以外の意味があったのかもね。昭和初期まで戦死者を迎える慰霊花火があったぐらいだから。

ワタシの世代だと、どうしてもシンデレラ城の花火をイメージしちゃうもんね。



ワタシは一時葛西に住んでいて、あの花火の音が20時30分の時報代わりだったよ。まぁ、それはさておき、この水神祭の花火は幕府が主導したわけではなくて、周辺の料亭や小屋が幕府の許可を得て企画したものなんだ。当然、費用も負担している。

花火で暗いムードを吹き飛ばそうってことかな。



この時に花火を担当したのが6代目鍵屋弥兵衛だ。初代鍵屋は奈良の人で、おもちゃ花火の開発から始めて、両国横山町に店を構えた。いわば江戸花火のパイオニアだ。最初の水神祭では20発前後の大型花火で喝采を浴びたんだ。大型と言っても、まだ打ち上げ花火ではなく立花火で、火を噴きながら星が出る程度。今の花火に比べたら地味なものだけどね。

そういえば、ウチのおじいちゃんは花火が上がる度に「たまや〜、かぎや〜」って言ってたけど、鍵屋ってそういう意味だったのね。


今までどういう意味だと思っていたんだよ。玉屋は文化7年(1810)に鍵屋の手代が鍵屋からのれん分けしてもらって両国広小路に開いた店なんだけど、川開きでは上流を玉屋、下流を鍵屋が受け持って、一時は本家・鍵屋を凌ぐ人気だった。

だから「たまや〜」が先なのね。



競合他社が出てくると技術が向上するということさ。ところが、玉屋は天保14年(1843)に1500坪を焼く火災の火元になったことで、財産没収の上、江戸追放という厳しい処分を下された。結局玉屋は玉屋市兵衛一代で終わってしまった。

まさに、打ち上げ花火みたいな人生だったのね。



それじゃあ、花火は鍵屋だけだったのかと言えばそうでもない。「町人風情に任せておけるか」って思ったのかどうかは知らないけど、隅田川沿いに屋敷を構える大名達も花火を作り始めるんだ。各藩には専属の砲術師や火薬職人がいたからね。

ははぁ〜。今度は殿様同士で競い合うってわけね。



平和な時代になって、火器開発の需要がなくなってきたという背景もあるんだろうな。尾張、紀州、水戸の御三家とか、伊達藩とか、財政的にも余裕のある藩が狼煙花火の開発を始める。狼煙花火っていうのは、今で言う信号弾みたいなもので、高く垂直に上げるタイプ。これと、町人花火の仕掛けや色が合体して、日本独自の打ち上げ花火が出来上がるんだ。

←「江戸自慢三十六興 両こく花火 」三代豊国、二代広重筆

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