浮世絵で見る江戸・両国

第3回 振袖火事と両国の発展
〜その3

語り手:大江戸蔵三
都内の某新聞社に勤める整理部記者。三度のメシより歴史が好きで、休日はいつも全国各地を史跡めぐり。そのためか貯金もなく、50歳を過ぎても独身。社内では「偏屈な変わり者」として冷遇されている。無類の酒好き。

聞き手:蔵前なぎさ
都内の某新聞社に勤める文化部の新米記者。あまり歴史好きではないのだが、郷土史を担当するハメに。内心ではエリートと呼ばれる経済部や政治部への異動を虎視眈々と狙っている。韓流ドラマが大好き。

あれば良かった?天守閣

ところで「明暦の大火」の火元が、幕府による意図的な放火ではないかという説があって、これもなかなか興味深い話なんだ。

ええっ! なんで自分たちが造った街にわざわざ火をつけるのよ。そんな話ってある?

奇しくも火事が起こる半年ほど前に、その頭脳明晰さゆえに「知恵伊豆」と呼ばれた老中・松平信綱の屋敷に寺社奉行、町奉行、勘定頭といった幕閣が集まって武家の屋敷替えを中心とした江戸改造計画が議論されたという記録があるんだ。江戸初期には外堀の内側が「御府内」、つまり江戸市中と見られていて、そこに武家屋敷が集中していた。しかし、みんながみんなそこに住めるほど広いワケじゃない。実際、承応元年(1652)に屋敷を持っていない旗本が600家あったというからね。急激な人口増加で住宅不足が深刻化していたんだ。

要するに、みんな都心に住みたくても住めなくなったわけね。じゃあ、郊外に住めばいいじゃない。

武家にも格式というものがあるから、おいそれと田舎には住めないの。この頃には参勤交代も制度として完成されていたから、地方の大名も江戸に自分たちが住む「上屋敷」と別邸の「下屋敷」が必要になっていたんだ。まぁ、言ってみれば地方自治体の「東京事務所」ですよ。江戸の経済が活性化すれば、武家だけじゃない、町人だってどんどん増える。そこで幕府は外堀の外側も宅地にできるように急ピッチで造成を始めるんだけど、そのためにたくさんのお寺や神社を移転させているんだ。飲み水の不足も大問題だったから、玉川上水の開削もこの頃始まった。経済の発展と人口流入のスピードに政策が追いつかなくて、江戸はパンク状態だったわけさ。

いつの時代にもお役所は後手後手に回るのね。でも、だからって火をつけて一度リセットしていいってことにはならないでしょ。

もちろんそうさ。でもね、ちょっと面白い話があるんだ。振袖火事の火元は本妙寺だって言ったよね。ところが明治になってから、当の本妙寺がこれを否定しているんだ。それによると、火元は本妙寺に隣接した老中・阿部忠秋の屋敷だって言うんだな。これがもし本当なら幕府の面目丸つぶれだから「知恵伊豆」が知恵を出して本妙寺が火元ということにして、口止め料代わりに「移転の必要なし」さらにお寺の格まで上げたという話。実際、火元と言っても何のお咎めもなかったし、阿部家からは260年もの間「供養料」が支払われていたというんだな。

何だか火事だけにキナ臭い話よね。ちょっと事情は違うけど、幕府の放火っていう説もなんとなく信憑性をおびてきたわね。

だけど、仮に幕府が放火したとしても、大きな誤算としかいいようのない事態が起きたんだ。冬場の異常乾燥と、関東特有のからっ風が災いして、二日二晩燃え続け、ついには江戸の6割が焦土と化した。そして、幕府としては燃えてはいけないものまで燃えてしまった。

えっ? 何が燃えたの? まさかお城とか…。


そのまさかで、江戸城の本丸、二の丸、三の丸も火に包まれた。おかげで徳川の威信を天下に示してきた5層の大天守閣も全焼してしまったんだ。

そういえば今の皇居に天守閣ってないわよね。火事のあと再建されなかったってこと?

当然、再建計画はあったし、図面まで残っているんだけど、「知恵伊豆」と並んでまだ子供だった四代将軍家綱を支えた保科正之が「天守は遠くを見るだけのものであって、必ずしも城の守りに必要なものではない」ということで再建計画を取りやめにするんだ。予算がかかる城作りよりまず町の再建が先、という判断だな。さすがは会津の名君、実に合理的な判断だ。

でも、再建していれば今頃は観光地になっていたのにねぇ。


それじゃ、もう少しキミの夢をふくらませようかねぇ。実は、焼けた天守は三代目なんだ。家康、秀忠、家光それぞれの代に改築されている。家康、秀忠の天守は姫路城のような美しい白い漆喰の壁だったという説が有力で、焼けた家光の天守は防火用に黒い銅板が貼られた、シックな外観だったらしい。しかも破風の飾り板には金を使っていたんだ。
↑焼失した天守の復元図

黒と金のコントラストかぁ。結構お洒落よね。でも、防火用に銅板貼ったのに、どうして燃えちゃったのよ。

誰かが窓を開けっ放しにしていたんだそうだ。そこから火が入っちゃった。火災直後は一応、再建しようという意志はあったみたいで、家康と利家の曾孫にあたる加賀の前田綱紀が、天守台の石垣だけは造った。それが今でも残っているんだ。

明暦の大火が四代将軍の時っていうことは、そのあと徳川幕府って十五代まで続くんでしょ。っていうことは、それまでずっと江戸城って天守閣がなかったっていうこと?

一度、新井白石による再建計画が本格化したこともあったけど、結局頓挫した。家綱のあとの綱吉時代に公共事業ラッシュで「元禄バブル」が起こるんだけど、その後バブルが崩壊して幕府は慢性的な財政難に陥るんだ。

なんだか今の時代の話みたいで身がつまされるわね。


唯一違うのは江戸時代にはなかなか優秀な政治家や官僚がいたってことだな。これまで話してきたように、明暦の大火があった家綱の時代には、保科正之と松平信綱という非常に優れた補佐役がいたから、江戸焼失後の都市計画はスムーズかつ素早く成し遂げられるんだ。今回の東北大震災もそうだけど、復興に大切なのは強力なリーダーシップと素早い意志決定なんだね。

ああ、東北の被災者の皆さんに聞かせてあげたいわ。


それでできたもののひとつが両国橋だ。大火の2年後、万治3年(1660)には完成している。隅田川に新しく橋を架けたというのは、幕府が「もはや外敵の恐れ無し」と判断したことの現れなんだな。新しい江戸のまちづくりに関して、最も重要なコンセプトは「平和な時代の城下町」なんだ。両国橋は避難路であると同時に、隅田川東岸を住宅地にするための連絡路でもあったわけ。あくまで市民のためのものなんだね。そういう意味では、武断政治から文治政治に移行するシンボル的な意味合いがある。ちなみに完成当時、橋の名前は「大橋」だった。

それがどうして両国橋になったの?



西側が武蔵国、東側が下総国と、2つの国にまたがっているという意味でいつのまにか両国橋と呼ばれるようになって、それが定着してしまったから、元禄時代に新大橋が架橋されたのを契機に、両国橋というのが正式名称になったんだ。

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