浮世絵で見る江戸・両国

第5回 江戸最大の繁華街〜その2

語り手:大江戸蔵三
都内の某新聞社に勤める整理部記者。三度のメシより歴史が好きで、休日はいつも全国各地を史跡めぐり。そのためか貯金もなく、50歳を過ぎても独身。社内では「偏屈な変わり者」として冷遇されている。無類の酒好き。

聞き手:蔵前なぎさ
都内の某新聞社に勤める文化部の新米記者。あまり歴史好きではないのだが、郷土史を担当するハメに。内心ではエリートと呼ばれる経済部や政治部への異動を虎視眈々と狙っている。韓流ドラマが大好き。

江戸の万能イベントスペース?回向院

回向院のイベントって何だったの?お寺だから縁日とか?



それを説明する前に、広重の浮世絵を見てもらおうか(左)。「江戸名所百景」の中から「両ごく回向院元柳橋」だ。これを見ればイベントが何だったかわかるはずだ。


えっ?何コレ?櫓みたいなのが組んであるけど、これって富士山と川の絵じゃないの?それより回向院はどこに描いてあるのよ?何だかわけわかんない。


あはは。いかにも広重らしいひねった構図だろ。回向院はこの櫓の下にあるんだ。視点は回向院から見て南西方向を見ているから、両国橋はこの絵だと右端にあって、構図からはずれてしまう。対岸に見える橋は元柳橋で、橋がかかっているのは堀、つまり運河で「薬研堀(やげんぼり)」ということになるね。

で、結局何のイベントなの?お祭りか何か?



櫓の上にあるのは太鼓だから、お祭りという答えは惜しいけど違うな。これは、相撲をやってますよ、という告知のための櫓なんだ。


へぇ〜、お相撲ってお寺でやってたの?全然イメージわかないけど‥。



そもそも相撲というのはお寺というより神社で行われる神事だったんだ。神様に捧げる儀式の一種だね。現在のような格闘技としてのスタイルが出来たのは奈良時代ぐらいからで、日頃の鍛練という意味から鎌倉以降の武家社会にも広まっていった。江戸時代に入ると、貞享元年(1648)に寺社奉行の管轄で興業としての大相撲が始まり、プロの力士も登場するというのが、凄く大雑把な相撲の歴史だ。

本当に大雑把ね。でも、神社で相撲とってたっていうのは、お寺よりもっと意外な感じ。



意外でも何でもないよ。最初の興業は深川の富岡八幡宮だ。そもそも寺社奉行の管轄だから、興行収入は寺社の修復費用に使うという名目だったわけ。これを勧進相撲というんだけど、明和5年(1768)に初めて回向院で開催されて、天明元年(1781)以降に定着するんだ。

どうして回向院が選ばれたの?



はっきりした理由はわからないけど、第一に両国が江戸最大の繁華街になっていたということだね。何より集客がしやすい。加えて幕府主導で造られた新しい寺であること、つまり寺社奉行サイドから見てコントロールしやすいということだね。それに浄土宗という宗派にこだわらず、庶民のための寺として無縁仏やペットまで供養する「開かれた寺」だったということもある。

なるほどねぇ。わかったようなわからないような‥。



回向院は、全国の秘仏とか秘像なんかを運んできて、庶民に開帳していたらしい。そういう意味では今で言う博物館、美術館のような役割も果たしていたんだ。今風に言えば、汎用性の高いイベントスペースだったわけ。結局勧進相撲も毎年春と冬に定着して76年間、明治46年まで続いた。

春場所と冬場所ってことね。夏と秋はどうしてたの?



地方巡業ですよ。夏は京都で秋は大阪場所だ。相撲というのは格闘技でもあるから、強い力士は大名がスポンサーについてる。だから負けたら藩の恥になるってことで、ますます盛り上がるわけ。

今の相撲って外人ばっかりだし、八百長がどうとかこうとか言ってるから見なくなっちゃった。もしかしたら江戸時代のお相撲の方が面白いかもね。


あはは。残念だけど女人禁制。女の子は見ちゃいけないの。但し、花相撲といって稽古を兼ねた臨時興業の時だけは見ても良かったらしいよ。まぁ、それより昭和30年代までは「女相撲」というのもあったんだ。世が世ならキミだって力士になれたかもね。

それは完全にセクハラ発言です。あっ、そんなことより、今凄いことに気がついちゃった!


何だよ、すごい事って。急にビックリするじゃないか。



だから今、両国に国技館があるのね!場所は違うけど‥。



気がつくのが遅いよ。でもね、今の国技館は3代目なんだ。2代目は蔵前、初代の国技館は回向院の境内にあったんだよ。

ページトップへ戻る